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日本酒の歴史

今日、「日本酒」とも称される清酒が、米を主原料として造られ、しかも長い日本古来の伝統をもった酒であることは誰もが知っているところだと思います。しかし、その歴史ということになると知られていない部分がかなりあるのではないかと思います。

■製造の歴史

神代の時代から日本の酒の成り立ちをたどってみると、3世紀に書かれた古文書「魏志東夷伝」の中に、「喪主泣シ、他人就ヒテ歌舞飲酒ス」「父子男女別無シ、人性酒ヲ嗜ム」といった酒を表現する記述を見つけることができます。ただし、それが米の酒なのか、他の穀類、果実からつくられた酒なのかは不明です。
それでは、それぞれ時代を追って説明していきます。

縄文・
弥生時代
米を主体として酒がつくられるようになったのは、縄文時代以後弥生時代にかけて水稲農耕が渡来定着した後で、西日本の九州、近畿での酒づくりがその起源と考えられています。 この頃は、加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み」という、最も原始的な方法を取っていました。
奈良時代 奈良時代初期になると、米麹による醸造法が普及し、律令制度が確立され、造酒司という役所が設けられ、朝廷のための酒の醸造体制が整えられました。
平安時代 平安時代初期に編纂された「延喜式」には、「米」「麹」「水」で酒を仕込む方法、さらにはお燗に関する記載がされています。また、10種類ほどのそれぞれつくり方が違う酒についても記されています。
鎌倉・
室町時代
この頃、商業が盛んになるにつれて、米と同等の経済価値を持った商品として酒が流通しました。また、朝廷の酒造組織にかわって寺院、神社が酒をつくるようになり、京都を中心につくり酒屋が隆盛し始めました。
南北朝から室町初期「御酒之日記」によると、化学知識などの学問がないこの時代に今でいう麹と蒸し米と水を2回に分けて加える段仕込みの方法や、乳酸発酵の応用、木灰の使用などが、明確に記されています。よって、この頃に現在の清酒づくりの原型がととのったことになります。
16世紀には、奈良で大量生産の先駈けとなる十石入り仕込み桶が製造され、酒は寺院酒から地酒の時代へと移行していきました。数々のローカルブランドが誕生し、地域間、酒質、製造量の競争は激烈を極め、多様化が促されるなかで、今日の清酒づくりの完全な原型ともいえる「諸白(モロハク)」(※1)仕込みが完成していきました。
一方、大桶をつくる技術の完備によって、かめや壷で少量ずつ仕込んでいたころよりも、生産量が飛躍的に増大し、まさに近代清酒工業の基盤が確立してきました。
※1.諸白(モロハク)とは
麹、掛米のいずれも白米としたもので、「片白(カタハク)」とは麹を玄米とし、掛米のみを白米とした仕込みのこと。
江戸時代 江戸時代初期頃までは、新酒、間酒、寒前酒、寒酒、春酒、と1年間に計5回仕込まれていましたが、中でも冬期における「寒づくり」が最も優れていることが明らかになり、優秀な酒づくりの技術集団の確保がしやすい時期であることと、低温、長期発酵といった醸造条件上からも寒づくりが重要視されるようになりました。
また、保全性を高めるための火入れ法や、歩留りをよくすると同時に香味をととのえ火落ち酸歯敗の危険を低くする柱焼酎の混和法など、当時ヨーロッパに見当たらない画期的な処理技術が続々と開発されました。
天保年間には、酒造用水の水質の重要性が広く知られるようになり、鉄分が少なく、有効ミネラルに富んだ水が酒づくりにいかに重要であるかが実証されることになりました。
また江戸中期には、海運の発達や問屋組織の確立とともに、酒づくりが「地の酒」を超越して巨大な装置産業へと発展していきます。
明治時代 明治時代後半には、速醸法があみだされ、国立の醸造試験場が開設されました。これにより、化学理論が酒の製造に不可欠の要素として広く認識されました。
近年 昭和初期に、たて型精米機の発明、温度管理や微生物の管理が容易なホーロータンクの登場、酵母の採取、分離、純粋培養といった技術革新が相次ぎました。
昭和10年頃までには、酒造の近代化、効率化を迎えるのに必要な計器機器類はほぼ出そろい、大戦を経て昭和後期の伝統への回帰、地域特性に基づいた酒質形成が各地で行われる下地が芽生え、現代にいたります。

 

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